12月30日 沖縄の戦跡と歴史を巡るツアー。
ツアーの順序は下記の通りです。
心に響く、深い内容のツアーに連れて行って下さり、平和ネットワークのガイドのKさん、
本当にどうもありがとうございました。ここで、お礼をさせて頂きます。
順序:
沖縄平和ネットワークのガイドさんの個人の車にて、ひめゆりの塔と資料館→糸満市 轟のガマ入壕→平和祈念公園(平和の礎)→嘉数高台→嘉手納道の駅→沖縄国際大学での米軍ヘリコプター墜落現場見学→嘉手納基地内の部落跡を見学→北谷町砂辺地区見学→那覇市内着
●糸満市 ひめゆりの塔:
資料館は、元学徒の方達が通っていた学校の外観をイメージして作られている。
ひめゆりの塔は、財団にもなり、観光客が来る場所としても有名になったが、ひめゆりの塔に隣接した敷地には、同様に亡くなった学徒の碑があり、あまり知られてはいない為、お参りに来る人は少ない。他の場所にも、あまり知られていない、いくつもの学徒の碑がある。
ひめゆりの塔の説明については、有名な場所の為、省きます。
*一般の映画には、ひめゆりの学徒が崖から飛び降りる様なシーンが有りますが、実際には、飛び降りは、無かったという事です。
●糸満市 轟のガマ入壕:
南国の木々に埋もれる様にガマへの階段が続いている。階段を何段も降りると、薄暗いガマの入口に着く。懐中電灯で照らさないと中が全く分からない程、暗い。ガマは、鍾乳洞なので、鍾乳石から、水が常に落ちてくる為、滑りやすく、上から下がっている鍾乳石が長く伸びていて、中へ入りずらい。このガマには、マッチの火のみで、息をひそめるように住民の人達が沢山避難していた。戦火の中での食料の調達は、大変過酷で、餓死や病死する住民が多く居た。マッチの火が消えた後は、暗闇の中だった為、お母さんが、冷たくなった赤ちゃんの体を肌で直に感じ、体温と呼吸の有る無しで死を確認したという。
ガイドさんが、ライターの火を付けたあと、すぐに消してから、「この真っ暗闇の中で、住民の人達は、息をひそめていました。この轟のガマに来た米兵の中に、日系人が居たので、言葉が分かった住民が、ガマの中で自決を選ばずに、出て来ました。暗闇の中では、全くなにも見えないので、恐怖と不安に襲われると思いますが、極限の状態では、かえって、暗闇の方が周囲で亡くなった方達の遺体や悲惨な状況を見る必要が無いので、正常な精神が保てたそうです。ガマの中は、右の穴と左の穴に分かれていて、ガマの状態の良い方の右は、傷病兵を治療する場所で、左は、住民の避難場所になっていた。死者の少なかったこのガマでも、赤ちゃんが泣くと、米兵に見つかる事を危惧した日本兵の指示で殺される事が有ったそうです。」
●糸満市 平和祈念公園(平和の礎いしじ)
キャンプ・シュワブ(沖縄県名護市と宜野座村にまたがる基地)の名前の由来でもある、アルバートネスト・シュワブ(ALBERT EARNEST SCHWAB海兵隊員で、沖縄戦で戦死後に、名誉勲章を受章)の名前が彫られた礎をガイドさんと見つける。
ガイドさんが、「戦死した人間に、勲章を与えて、称える事で、その後に続く人間をつくりだしている」と指摘。中々、修学旅行のツアー等では、学校側が希望しない為、基地問題に触れる事は難しい事も話されました。
その他、山口(YAMAGUCHI)という日系米兵の名前を見つけて、「日系米兵は、日本語でガマの住民に呼び掛けて、投降を指示した為、自決者が出なかったという功績ばかりが話されるが、彼らは、日本語が分かる為、住民を見はったり、日本軍の文章の翻訳等を担う仕事もしていた。
都合よく、瀬長 亀次郎氏(元那覇市長でも有り、米国統治に対する抵抗運動を行い、琉球の為に戦った政治家。)等の諜報部員として利用されていたのです。」とガイドさんが説明されていました。
●嘉数高台
宜野湾市の南西部にある、沖縄戦で最大の激戦地となった場所で、後に公園となり、普天間基地が見下ろせる場所。30日は、日曜日だった為か、飛行機の動きは余り見られなかった。
ロシア語でトーチカと呼ばれる、敵兵の銃弾等を防御しながら抗戦していた、陣地跡を見学。
コンクリートと鉄製の棒が、壊れて溶けていた。火炎弾、火炎砲で、焼かれたり、銃弾の跡だとのこと。
●嘉手納道の駅
嘉手納空港を見下ろせる場所でもあり、お土産屋さんも有るので、一般観光客の方が多い。
嘉手納基地の中には、住民のお墓が有り、基地に申請しないと中へ入れない為、お参りを
するのも困難。基地から得たお金で作られた児童公園は、基地の目前に有り、安心して遊べる場所とはいえない。
基地が有るから恩恵を受けて、嘉手納の住民は防音工事が出来るというのは、間違いです。
基地が無ければ不要だった設備を、日本の税金を使って、行政が工事会社を通して、
取り付けているだけです。防音設備だけでは生活に支障がでる地域の住民は、転居をせまられている実態が有ります。
基地にした土地は、返還されても、地中深く迄コンクリートを埋め込む為、容易に畑には戻せない。命を育めない土地になるので、使い道は、ショッピングセンター等を建てるしかなくなるのです。
●沖縄国際大学ヘリコプター墜落場所
ヘリコプターが大学に墜落する時、大学の目前のアパートに住んでいた住民のご家族が、ヘリコプターの様子がおかしいので、早く逃げる様にに連絡したそうです。
ヘリコプターは、空で何度もふらふらとふらつきながら飛行し、大学の壁を削り取る様に激突しました。そばの木も焦げ落ちました。
ガイドさんの説明より。
●嘉手納基地内にある、嘉手納マリーナへ。
嘉手納マリーナは、シーサイドレストラン等のアメリカ式のレストランやリゾート施設が
有り、そばの海辺は美しく、主に米兵が利用する場所だが、沖縄の住民もドルを使えば、自由に飲食をする為に出入り可能な唯一の基地施設。
この施設の先に、ガイドさんが本当に連れて行きたい場所が有った。施設を通り過ぎて、ずっと、歩いていくと、海が川の様に流れ込む場所を挟んで、小さな目立たない丘が見えた。丘へ行くには歩いて海を渡るので、干潮でないと渡れないから、タイミングが悪いと無理だ。
団体では来れない場所の為、個人をガイドする時のみ、連れてくる場所だという。
千原の拝所という場所だった。他にも、碑が有ったが、拝所の事を記載します。
千原の拝所(略して、以降、千原と記載します。)は、米兵が部落の住民から土地を奪うまで、別の場所に有った。千原には、土地の神様が祀ってあり、部落の人達は、元々住んでいた場所で
信心深く、静かに暮らしていたのかなと想像させられる。
部落住民が土地を奪われ、土地神様にお祈りが出来なくなった後は、現在の丘に神様を祀る碑が移動された。当時のままを残すために、線香たてや、井戸の神様も祀ってあるので、井戸の穴も神様の前に作られている。
基地は、住民から土地を奪って、出来たものだという事が実感出来る場所でも有り、美しい海と浜のそばに住んでいた、部落の方達の生活を感じさせる場所でも有る。今も、この部落を語り継ぐ為に、沖縄伝統芸能のエイサーは、この千原の碑の前から始められるという。
●北谷砂辺地区
基地には、数億の思いやり予算(私達の税金)で建てられている、米兵用の住宅が有り、北谷には、上のクラスの兵士に限られる様だが、基地の外に、米国の税金で建てられている高級リゾートの様な家々が並ぶ、家の前の車は全てYナンバー(Yナンバーの車は、日本での登録はされておらず、米国での登録となっている、米兵用の車)である。
米兵が基地と基地の外で暮らす事で、2つの問題が生じている。1つ目は、基地内と外で家を
持つ事により、日本と米国の税金を無駄にしている。
2つ目は、最近、北谷で中学生がYナンバーの車に誘拐されそうになったが、Yナンバーの車は、日本での登録が無い為、所有者を見つける事が難しく、米兵は、住民登録をしなくても良い為、住民票がなく、警察が、疑わしい地区の家のYナンバーの車と家を1軒ずつ訪ねて、犯人を探す必要が有り、困難な作業だったという。
以上、戦跡と歴史を巡るツアーの内容になります。
平和ネットワークのガイドさんの案内により、沖縄の問題を直に感じられました。
私の中で心に一番残ったのは、米兵に土地を奪われた、沢山の部落の人達の事と、2つの国の税金で、基地内と外で高級住宅に住む米兵の事です。
定期的に、家が無い方達の支援ボランティアを地元の群馬で行っている為、複雑な気持ちでした。
0コメント